家に着いたのは、八時過ぎだった。
香苗が来ていて、桜子となにやら盛り上がっていた。
「お邪魔してるよ」
「なんでこんな時間に? 俊成はどうしたの?」
「今日から出張よ。知らなかった?」
「フロアが違うから、いてもいなくても気づかないのよね」
そう言いながら、あや女は自分自身に驚く。少し前までは、たとえフロアが違っていても、俊成の一日の行動予定はきっちり把握していたのに。
「なにか食べた?」
着がえを済ませたあや女が訊くと、香苗はテーブルの上に並べた惣菜パックを指差した。
「三越の地下で、中華惣菜買ってきたのよ。あや女も食べよ」
「あと、おねえちゃんの名前でピザの宅配も頼んだの。いいでしょ?」
呼び捨てから「おねえちゃん」になった。家においてもらうためにゴマをすっているのだろう。なんだか子供らしくて、かわいかった。
ピザはすぐに届いた。あや女は冷蔵庫からビールとウーロン茶を出して、香苗にビールを、桜子にウーロン茶を渡した。しかし、香苗は自分もウーロン茶にしてくれと言い出した。
「どっか具合でも悪いの?」
あや女は不思議そうに訊いた。香苗は、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「実はね……できたの。三ヵ月」
冷蔵庫からウーロン茶を出そうとしていたあや女は、手を滑らせて缶を落としそうになった。あわててキャッチする。
「えー、そうなんですかあ。おめでとうございます。やっぱ、女の幸せって、好きな人の子供を産むってことですよね」
桜子は、能天気に喜んでいた。彼女の母は、あや女の父の子を産んで幸せだったのだろう。仕方なく産んだ、あや女の母と違って。
「でも、ちょっと月数があわないんじゃないの? 結婚して、まだ一ヶ月ちょいでしょ」
「ま、その話はおいといて。それで、禁酒中なのよ」
照れながら、香苗は幸せそうに笑った。
俊成は、あや女から決定的に遠ざかってしまった。それを悲しいとは思わない。少しだけ、寂しいけれど。
「それじゃ、乾杯しなきゃだね。つわりは大丈夫なの?」
「うん。今のところは。もうじきひどくなるらしいんだけど」
「じゃあ、今のうちに栄養つけとかなきゃね」
「香苗さんは、結婚式どこで挙げたんですかあ?」
桜子が、瞳をキラキラさせながら香苗に訊いている。結婚に憧れる気持ちが、あや女には理解できない。
「それにしても、あや女にこんなきれいな妹さんがいたなんて、全然知らなかったわよ」
八宝菜を食べながら、香苗が言った。そりゃそうだろう。あや女だって、高校を卒業するまで異母妹の存在なんて知りもしなかったんだから。
「しかも、桜子ちゃんが里見くんの教え子だなんて、世の中狭いわよね」
里見の名前が出たとたん、あや女と桜子の間に緊張が走った。しかし、あや女は素知らぬ顔でウーロン茶を飲み、桜子は大口でピザを齧った。
夜も更けて、香苗は帰ると言い出した。俊成から電話がくるはずだから、自宅で待ちたいというのだ。
(携帯もあるだろうに。……大体なにしに来たのよ?)
そう考えかけて、あや女は気づいた。香苗は、牽制しに来たのだ。俊成はもう完全にあたしのものだから手を出すな、と。
ちょっと注意して見ていれば一目瞭然だと、里見も言っていた。香苗が気づかないはずはないのだ。
(そんなの、心配することないのに……)
香苗のほうを見ると、彼女はなんの屈託もなさそうに、桜子に家に遊びにくるように誘っている。結婚式や新婚旅行の写真を見せると言って。
あや女は、車で香苗を家まで送ってやった。今は俊成よりも里見に気持ちが向いているということは、ちょっぴり悔しいので香苗には言わないでおいた。
香苗を送って帰ってくると、桜子は洗面所で歯を磨いていた。
居間をのぞくと、出しっぱなしにしていた空き缶や皿は、きれいに片付いていたる。
あや女は、鏡越しに桜子を見ながら話し出した。
「今日、父さんに会ってきたよ」
「なんて言ってた?」
桜子は、鏡の中からあや女を見つめ返しながら、口を拭った。
「大反対」
「そう……」
桜子は、視線を落として水のはねたところを布巾で拭いた。
「あんた、ついていかなくて後悔しないの?」
桜子は無言のまま、洗面台に落ちた髪の毛を拾っていた。
「ずっと一緒に暮らしたかったんでしょ、父さんと」
「ガキの頃はね」
今だって十分ガキのくせにと思ったが、あや女は口には出さなかった。
「今は、パパより里見のほうが大事。パパがあや女のためにあたしとママを捨ててたときみたいに、今度はあたしがパパを捨てる」
「ゴミじゃないんだから」
あや女は、あきれたように呟いた。
「ま、桜子がここにいたいのなら、あたしは構わないよ。でも、掃除も勉強もきっちりやってもらうからね」
そう言い捨てて居間に戻ろうとして、あや女は立ち止まった。
「桜子、父さん、四月の十八日に外泊したことある?」
「まさか。あたしの誕生日なのに」
桜子は、即座に否定した。
「そうだよね。あたしと暮らしてた頃も、父さん、その日は桜子のところへ行ってたもんね」
あや女は居間に戻ると、アヤメの花束をゴミ箱に放り込んだ。添えてあったカードも一緒に。
五月二十五日、あや女の誕生日に父が会ってくれたことなど、この七年間一度もなかった。
……もういい。もう親のことなんて気にしない。親だって、好きな人のそばにいたかっただけ。一番好きな人が、あたしじゃなかったことが、少し寂しいだけだ。
あや女は、部屋を見回した。かつて、両親と一緒に生活していた頃とほとんど調度は変わっていなかった。
……今度、模様替えしよう。
遠くから、かすかにサイレンの音が響いていた。
居間に戻ってきた桜子と入れ違いに、あや女は洗面所に入った。そして、冷たい水で顔を洗った。
翌日、会社での昼休み中、あや女は受付に客が来たと呼ばれた。
たぶん父親だろうと、気の進まぬ足取りで受付に向かったあや女は、そこに里見の姿を見つけてびっくりした。
「先生、どうしたの?」
あや女に会いに男がやってきたと、興味津々で見守っていた受付嬢二人は、「先生」という言葉に多少がっかりしたように見えた。
里見は寝不足なのか、目が赤く、あまり元気のない様子に見えた。
「今ちょっといい?」
「うん」
二人は会社を出て、オフィス街にあるレストランに入った。あや女は既に昼食は済ませていたのでミルクティーをオーダーし、里見はAランチを注文した。
「もう二度と会うこともないと思っていたけど?」
あや女は、さも意外そうに言った。本当は会えてとても喜んでいるなんて、絶対里見に悟られたくない。
「その、実は……」
里見が言いかけたとき、Aランチが運ばれてきた。
「もしかして、桜子のこと?」
あや女はミルクティーを飲みながら、里見が生姜焼きに箸をつけるのを見ていた。
「そうじゃなくて……。その、俺んち、焼けちゃって」
「はあ?」
「昨日の夜。朝刊見なかった? 隣の部屋の男の煙草の不始末で……」
「それは……」
大変だったわねえ、と言うのもマヌケっぽくて気が引けた。引越しした翌日である。そんなタイミングで火事に遭うなんて、不運にもほどがある。
ただ、これで里見の用件の見当がついた。不謹慎にも、あや女の口元はゆるんでくる。
「全部焼けちゃったの?」
「アパートは半焼だけど、俺の部屋は全部ダメ」
「家財道具は? ……と言っても、あまりなかったわね」
里見は、やっと少し笑った。
「家具つきアパートだったからな。まだ荷物も開いてなくて、貴重品の入った段ボール箱ひとつは、なんとか持ち出したんだけど。他の荷物は全部ダメ」
「保険は?」
「引っ越したばっかで、これから手続きしようと思っていた矢先に……」
そう言うと、里見はテーブルに打ちつけそうな勢いで頭を下げた。
「頼む、あや女。もう一回、部屋貸して」
「いいわよ」
あや女があまりにもあっさりとオーケーしたので、里見はきょとんとしてあや女を見つめた。
「なによ、その顔?」
「だって、あや女、怒ってないの?」
最後の夜、気まずくなっていたことを、あや女は桜子や香苗のことで忘れていた。
「香苗、妊娠したんだって。聞いてた?」
「いや」
「もう俊成のことは、いいのよ。だから、あたしの家に住みたいんだったら、二度とそのことは言わないで」
そろそろ昼休みの終わる時間だった。あや女は、ぬるくなったミルクティーを飲み干すと、レシートを持って立ち上がった。それを見て、里見があわてて言った。
「ここは、俺が払うから」
「なに言ってんの、大変なときに。これぐらい、奢るから」
里見はプライドが傷つけられたような顔をしていたが、実際大変なときなので仕方がない。
「七時過ぎに、家に来てね」
そう言い残すと、あや女は先にレストランを出た。足取りは、とても軽かった。
早めに仕事を終わらせて、六時過ぎに家に帰ると、桜子はそわそわしながらあや女を待っていた。なにかを言いたそうにしながら、言えないでいる。あや女から先に、言ってやった。
「先生の家、焼けちゃったんだってね」
その言葉に飛びつくように、桜子は身を乗り出した。
「里見、ここに住むことになるの?」
「あんた、自分が高校を卒業するまで、先生に迫らないって約束できる?」
「あや女にそんなこと、約束できない」
「じゃあ、父さんと一緒にシンガポールに行きな」
あや女は、わざと冷たく言い放った。
「あや女って汚い! 家を盾にして、人の恋路を邪魔するわけ?」
「そうよ。ここに住んでもらう以上は、あたしが保護者だもん。同じ屋根の下で、不純異性交遊なんて認められないね」
あや女は冷蔵庫をのぞいて、三人分の食材があるか確認した。
「本音を言えば、あんたを追い出して、先生と二人で気楽に過ごしたいぐらいなんだけど。あんたが約束してくれるなら、あたしもあんたが卒業して、あたしと対等の立場になるまで、先生にモーションかけないよ。それでどう?」
「……わかった。約束する」
桜子は、しぶしぶ承知した。承知するしかなかった。
あや女は、少し心が痛んだが、それも仕方ないと自分を納得させた。こうして桜子を牽制しておかないと、とても三人で平和に生活できるわけがない。
それに桜子の卒業までは、自分の態度を保留しつつ、里見のそばにいられる。恋愛に慣れていないあや女にとって、それはありがたいことだった。
ちょっと卑怯だと思いつつ、今はもう独りじゃないことが素直にうれしかった。
約束通り七時過ぎに、里見はやってきた。桜子がいることに驚いていたが、今更他に行くところもなかった。
話し合いの末、家賃を取ることにして、里見はずっと部屋を借りることになった。焼け出されて無一文に近い里見は、あや女の提示する家賃より安上がりの住まいを見つけることができなかったのだ。
学校にはどう説明してあるのか、あや女は知らない。生徒と同じ家に住んでいるのがばれたら、かなりまずいと思うのだが、里見の場合、あまり気にした様子もなかった。もっとも、桜子のほうが、あや女のマンションに引っ越したことを学校に伝えていないのかもしれない。
父と桜子の母が、一度話し合いのために訪ねてきた。父は、かつてのマイホームで居心地が悪そうだった。離婚以来、ここにくるのは初めてなのだった。
桜子の母は、娘の気持ちをよく理解していて、不満気だった父を逆に説得してくれた。父はかなりがっかりした様子だったが、美人の娘を手元に置けないのが寂しいのだろうと推測していたあや女は、まったく同情しなかった。
日曜日、あや女は脚立の上で背伸びして、ベランダのカーテンをはずそうとしていた。今までの無難なベージュのカーテンをはずして、明るい空色のにかけかえるのだ。
ふと思いついて、朝食の支度をしている里見に、前々から不思議に思っていたことを訊いてみた。
「学校の先生って、住むところにも困るほど給料安いわけ?」
里見は一瞬言葉に詰まったが、照れ笑いしながら言った。
「給料は、まあ普通の公務員なんだけど、車のローンと駐車場代が……」
「車? なに乗ってんの?」
「レンジローバー」
「レンジローバー? アパート代にも困ってるのに、そんな車に乗ってるの!」
「前まではルームメイトと家賃折半だったから。大丈夫だと思って、つい無理なローン組んじゃったんだよな。あと、奨学金の返済とかもあるし」
「それにしても贅沢な。あたしだってローバーミニ欲しかったけど、家計を考えて軽で我慢してるのに」
こんな金銭感覚がアバウトな奴が数学教師なんて、世も末だ。
「あたし、あんたの生徒じゃなくて良かったよ」
「俺と恋もできるし?」
「バカ言ってんじゃ……」
背伸びしていたあや女のバランスが崩れ、脚立の上でよろけそうになった。
いつの間にか後ろに来ていた里見が、あや女の腰を抱きかかえ、そっと床に下ろした。
「俺がやるよ。せっかく男手があるんだから、遠慮しないで使え」
「……うん」
赤くなった顔を見られたくなくて、あや女はうつむいた。里見はさっさと脚立に上がると、カーテンクリップをはずしていく。
「あや女って、意外と重いのな」
「わ、悪かったわね!」
里見は脚立の上から、ニヤニヤとあや女を見下ろしている。
「日頃お世話になってるお礼に、今日はドライブ連れてってやるよ。ここはやっておくから、桜子起こしてこいよ」
言われるまま、あや女は桜子の部屋に向かった。桜子は朝が苦手で、二・三度揺すり起こしてようやく物憂そうに目を開けた。
「……なによ、日曜じゃん。寝かせておいてよ」
「先生が、ドライブ連れて行ってくれるってさ。あたしと先生の二人で行ってもいいんなら、寝てていいけど」
そう言うと、桜子はしぶしぶ起き上がった。眠そうに目をこすると、きょとんとした顔であや女を見た。
「あや女、顔赤いよ」
「……うん」
腰の辺りに、里見の腕の感触が、まだ残っている。あの腕が、欲しくてたまらない。
「早く仕度しておいでね」
そう言うと、あや女は桜子の部屋を出た。
きっと、桜子もそうだろう。まだ、自分の気持ちに素直にはなれない。
里見のレンジローバーは、小樽の海岸へ向かって走った。
出発するとき、どちらが助手席に座るかでちょっともめたが、行きが桜子、帰りがあや女ということでお互い妥協した。
里見と桜子が楽しそうにしゃべっているのを聞きながら、あや女は後ろの席でぼんやりと窓の外を眺めていた。
つけっ放しのカーラジオから、あや女の好きなオールディズの曲が流れてきた。ベン・E・キングの「Stand By Me」。
ボリュームを上げて、と言おうとして、あや女は言葉を飲み込んだ。
わかった。あの夜、月明りに照らされた里見の表情が寂しげだった訳が。
リバー・フェニックスは早死にした。幸弘と同じに。
少年たちのひと夏の冒険を描いた、あの切ない郷愁にみちた映画は、里見と幸弘にとって思い出の映画であったのかもしれない。
里見は、曲には気づいていないのか、桜子とおしゃべりを続けている。それでいいと、あや女は思った。里見に、この曲を真面目に聞いてもらいたくはない。今は、まだ。
「きゃー、まだ水しゃっこいよー!」
海に着いて、早速桜子は裸足になり、波打ち際で水と戯れている。
空は雲ひとつない快晴で、桜子と同じように水辺で遊んでいる家族連れや、ウエットスーツを着てボードを練習している若い男が、ぽつぽつといる。
「ガキ」
口ではそう言いつつ、無邪気な桜子をきれいだと、あや女は心から思った。
「里見―、こっちおいでよ!」
「ほれ、先生、呼んでるよ」
里見は桜子に手を振って見せたあと、あや女に向かって言った
「前から言おうと思ってたんだけど、俺のこと先生って呼ぶのやめろよ。俺はあや女の先生じゃないんだから」
「じゃあ、なんて呼べばいいのさ」
「里見でかまわねーよ。ヘンな姉妹だよな、おまえら。教え子の桜子は俺のこと呼び捨てだし、関係ないおまえは先生としか呼ばないし」
桜子が、もう一度里見を呼んだ。
「さ、行くぞ」
口答えする間もなく、里見はあや女の右手を握って歩き出した。
里見の手のぬくもりを感じつつ、あや女は思う。
きっと、いつかは素直に言おう。「そばにいて」。
某エンタメ系の新人賞に応募して
箸にも棒にもかからなかった作品です。(〒_〒)ウウウ
いつか、キャラクターをもっと掘り下げて
長編に書き直したいと思っています。
(往生際が悪いです……)